長い空の旅を経てわれわれはアテネに到着した。
朝の6時に(泣)
ゲームのやりすぎで飛行機の中であまり寝ていないので今から一日始まるのはかなりきつい。
しかしわれわれは旅行に来たのだからしっかり観光しなくてはならない。
一旦ホテルに行き、しばし休息をとった後われわれは市内観光へと出発した。
まずわれわれが向かったのがシンタグマ広場である。
ここはアテネの中心ともいえる場所で、ホテルからも徒歩3分とかなり近い。
地下鉄駅もあるのでアテネ市内を移動するときは、まずここに来なくてはならないというわけだ。
そして、このシンタグマ広場を望むように国会議事堂、及び無名戦士の碑があるのである。
ちなみに下の写真の後ろの建物が国会議事堂、手前の壁に見える四角い部分が無名戦士の碑である。
われわれがそこに到着すると、ちょうど監視兵の交代の儀式をしていた。
まぁ別にその儀式自体はたいしたことないのだが、そこには目を見張る光景があった。
あたり一面ハトの糞だらけ(・ ・;)
そしてその糞を足の裏になすり付けるかのように歩く警備兵達……
気を取り直してわれわれは次にゼウス神殿へと向かった。
これはわれわれが見るアテネの初めての遺跡であり、K氏にとって生まれて初めての海外の遺跡である。
一歩一歩と遺跡に近づくにつれてK氏は興奮を抑えきれなくなったようだ。
そして最終的に噴火に至るとは私は全く予想だにしなかった。
ところでアテネでは19歳以下の人はすべての遺跡や資料館の入場料が無料となる。
だから僕は入場料を払う必要がないのだ。
一方K氏はこの旅行の直前に20歳になってしまっているのでしっかりと入場料を取られるのだ。
この差はのちのち大きな差となって現れてくるのだがこのときはそんなことを知る由もない。
話を元に戻そう。
噴火とは一体何なのだろうか?
それは突然の出来事だった。
ゼウス神殿を一通り回り、最後に写真でも撮ってもらおうかとK氏にカメラを渡しかけたその瞬間、
「あっ、ヤバい。
鼻血が出てきた〜。」
と、あわて始めたのだ。
私は今までいろんな人と旅をしたが、遺跡を見て鼻血を出した人はK氏のみである。
気を取り直して、僕らは次に今回の旅の目玉の一つであるパルテノン神殿へと向かった。
といってもゼウス神殿から見える位置にあるためそんなに遠いわけではない。
ここでパルテノン神殿について少し解説しよう。
時代は紀元前5世紀、ペリクレスの復興建設において最も重要な建物だったのがこのパルテノン神殿であった。
というのも、大きく立派な神殿を作ることが権力の証であったからだ。
実はこのパルテノン神殿が建てられる前、この丘の上の場所にはアテナ古神殿というものがあった。
もちろん「古」とついているので時代も相当古く、パルテノン神殿の建築が始まるころにはもうすでに遺跡になっていたという。
さて、みんなびっくりすると思うがこのパルテノン神殿では直線が使われていない。
その一例がエンタシスと呼ばれる大理石の円柱である。
中央部がわずかにふくらんだ形をしており、下から見上げても、遠くから眺めてもまっすぐにみえるように視覚効果を追求した高度な建築技術である。
さらに、この神殿の中には象牙と金で作られたアテネの守護神アテナ女神像があったという。
さて、パルテノン神殿について少し勉強したところで旅の話に戻ろう。
先ほど書いたように、ゼウス神殿から見える位置にパルテノン神殿がある。
しかし、僕らはすぐにパルテノン神殿にたどり着くことができなかった。
というのもパルテノン神殿は丘の上にあるために、入り口は数ヶ所しかなかったのだ。
そんなことも知らずに僕らは一直線にパルテノン神殿を目指した。
もちろん距離的にはどんどんパルテノン神殿に近づいていった。
が、
高度が変わらないのだ。
つまりパルテノン神殿はだんだん大きく見えてきているが、目の前に道のない崖も同時に視界に入ってきてしまったのだ。
そしてついに目の前の道がなくなってしまった。
道を間違えたことに気づいた僕らは、あわてて地図を取り出たりガイドブックを取り出したりして道を調べた。
はじめからそうしろよっ!
って言いたくなるがパルテノン神殿が見えていたのだから仕方がない。
随分と遠回りをして僕らはパルテノン神殿にたどり着いた。
教科書とかの写真などを見てかなりの大きさを想像していたが、実際にパルテノン神殿を見てみるとそこまでの大きさでなかったので少しがっかりした。
しかもものすごい観光客の量である。
これでは写真をとるのも一苦労だ。
しかもパルテノン神殿の周りをまわってみると、その半分以上がクレーンなどをつかって補修工事をしているのだ。
あと一回大きな地震がきたら崩れてしまうと言われているので補修工事が必要なのだろう。
少々雰囲気を壊してるが仕方がない。
先ほどから書いているようにパルテノン神殿は丘の上にあるのでアテネの町を一望できる。
丘の上から見るとアテネは建物が密集しているのがよくわかる。
しかしそれが昔の町並みをそのまま現しているので雰囲気はいいが道に迷いやすいので旅人には問題だ。
でも天気が快晴で雲ひとつないのでとてもきれいだった。
そのためか空気がとても乾燥しているらしく、暑いのに全く汗をかかない。
しかしその分ものすごくのどが渇く。
そこで近くの売店でジュースを買うことにした。
この時はまだ僕らはギリシアの物価をよく理解していなかった。
だからフレッシュジュース一杯に5ユーロも払ってしまった。
まぁ日本でもこれは高いがここは観光地だからこんなものだろう、と深く考えなかったのだ。
あとから市内のスーパーとか露天でジュースの値段を見てかなり驚いた。
ペットボトルで1ユーロするかしないかが本当の物価らしいのだ。
観光客をぼったくりすぎである(怒)
さて、パルテノン神殿を見学し終え、5ユーロも払ってのども潤った僕らは次におとなりの古代アゴラを見学することにした。
アテネは遺跡が隣接しているので非常に観光しやすい。
古代アゴラは昔アテネに住んでいた人が物を売ったり買ったりしていた市場みたいなところだ。
とはいえ長い年月が経過した現在はただ石が点在しているだけだ。
しかし、説明を読むと昔の水道の跡とかについて書いてあったりしたのでかなりの技術を持った文明であったのがうかがえる。
建物は教会と小さな神殿を残すのみとなって、ほとんどが廃墟と化している。
そしてその廃墟と化した古代アゴラではあまりの暑さと乾燥でぐったりとした野良犬が大量にいた。
アテネオリンピックを開催するために市内にいた野良犬を大量処分したというニュースがあったが、それでもまだかなりの数が残っている。
でもこんなにぐったりしてへばった犬を見たのは初めてだ。
こいつらは一体どうやって生活しているのだろう??
古代アゴラを見学し終えた僕らは遅い昼食をとることにした。
地図によるとパルテノン神殿の近くにレストラン街があるらしいのでそこに行ってみた。
それはその通りに入った瞬間だった。
突然、
「はぁい!おいしいヨ!安いヨ!日本語メニューあるヨ!」
と、ものすごい勢いで店員に声をかけられた。
現在日本人は世界中でぼったくりとかのカモにされていると聞くがどうやらホントらしい。
店員もしっかり怪しげな日本語をマスターしています。
僕らは旅の疲れがあり、空腹だったので何も考えることなく店員にキャッチされて店内に連れ込まれてしまった。
まぁ店内と言ってもオープンカフェみたいなところだから全く危険ではない。
僕らは早速ギリシア料理を注文してみた。
今回注文したのはムサカとゲミスタだ。
ムサカというのはひき肉とナス、ジャガイモをサンドイッチみたいに重ねて焼いた代表的なギリシア料理ものだ。
これから毎日のように注文しなくてもこれが出てきてうんざりしたのだが、そんなことは知る由もない。
一方のゲミスタというのは調理した米をトマトの中に詰めて焼いたものである。
独特の酸味があってこっちもなかなかおいしかった。
昼食を食べた僕らは地下鉄に乗ってオリンピックの競技場に足を運んだ。
というのもこの日はパラリンピックの開会式の前日だったので、もしかしたらまだチケット売ってるかも、と思ったのだ。
ところが実際に行ってみたらチケットを売っている、なんて状態ではなくただ警備員が警戒しているだけだった。
チケットブースも「NOT OPEN」とだけ書いてあって、いつ来ればいいのか全くわからない。
まぁせっかく来たのだからと競技場の中に入ろうとしたら警備員に追い返されてしまった。
結局少しはなれたところから競技場を眺めただけで帰ることとなってしまった。
無念・・・
他にも町を散策してホテルに戻った僕らはしばらく休憩して夕食をとりに外に出た。
夜もギリシア料理だ。
ちなみに庶民的なギリシア料理を出す店のことを地元ではタベルナという。
日本語では妙な意味だが気にしてはいけない。
話は変わるがギリシア料理は大量のレモンがついてくる。
以前レモンの消費量が世界で屈指だという統計を見たことがあるがホントみたいだ。
ちなみに夕食でワインを飲んでみたのだが、これが発展してこれから毎日晩酌をするようになるとは思わなかった。
そして帰り際にさらにびっくりな事件が起こった。
二人で歩いてホテルに帰っていたら突然横から小さな子供に抱きつかれたのだ!?
外国ではこんな手口でスリをされるという話を読んだことがあったのであわてて払いのけたが、実際にこんなことがおきるとは予想もしていなかった。
もしこれが僕でなくてK氏に起こっていたならばこの事実を知らないK氏はスリの被害にあっていたかもしれない。
K氏は僕が払いのけたのを見て驚いていたが、あとでスリかもしれないという話をしたらかなり驚いていた。
海外では何が起こるかわからないので慎重に行動しなくてはならないと身をもって体験したのだった。
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